ドラクマ ~オマを思い浮かべて~

泣き顔のドラから渡された電話にでると、オマが旅立ったという報せだった。ジャマイカから飛んできた娘のルーヴェ、ドイツからしばしば訪れていた息子のコブラに、両側から手を取られて平穏に逝ったという。1年ほど癌を患って、先日は、早春の庭に椅子を置いて、プロヴォンスの山を眺めているオマの写真が送られてきた。クマは、浜でワカメを拾っていたときに見つけたハートの形をした小石を、封筒に入れて送り返したところだった。

一晩中そして夜が明けてからも、オマとの出来事を思い浮かべていた。

ドラが生まれた翌年は、アルプスの雪解け水と大雨で、湖畔の掘っ建て小屋に水があがって住めなくなり、初夏から秋口まで、オマの城のような屋敷で子育てをした。クマの目に城のように映った建物は、南仏の百姓家を増改築したものだ。その広い庭で、ドラは最初の一歩を踏み出したのだ。クマがドラを抱えて庭の水撒きをしていると、赤ん坊を降ろすようにオマから言われ、母親の仕事中は赤ん坊を同伴しないのが、基本であった。食卓では、特別にしつらえた箱型の椅子からドラが立ち上がろうとすると、押し戻すように言われ、行儀を躾る。何かを躾ようという発想すら持たないクマは、対応に困った。夜も赤ん坊と一緒にベッドに眠るクマが、オマからみると驚異であったらしい。

何年か日本で暮らし、久しぶりに欧州へ戻ったときに、5歳のドラをオマの城において、クマはひとりでミュンヘンのアパートに先に帰るように、と言い渡された。もうそれは、そうしなければならないといった風に、クマには感じられた。クマから片時も離れないドラを祖母オマと父コブラに引き寄せるためだった。ドラが小さいとき、クマは何度か引き離される体験をしてきた。
ドラが育って、一人でもオマの城に泊まるようになり、時にはコブラと、別の時にはクマと一緒に、休暇を南仏で過ごすようになった。

黒いラブラドール・レトリーバーの初代はプリンセス、2代目がモナとルナ、少し経ってロティと揃い、3匹賑やかにオマに纏わりついて屋敷周りを散歩していた。庭のプールサイドに建つカバノで寝ていると、早朝から3匹が吠えながら小屋に乱入してきて、続いて入ってきたオマのキスで起こされ、ゆっくり寝坊などしていられない。寝起きに、その日のオマによる”私達”の予定を聞かされる。それを上手にかわしながら、自分のやりたいことをどこまでできるか思案するのが、毎日の課題だった。

時にはオマも故郷ドイツにやってくるが、たいていクマとドラが住んでいるアパートに滞在していた。買い物が好きで、花とかカーテンとかシーツなど自分の気に入った物を調達してくれた。南仏の自宅の庭では、いくらでも日光浴をする習慣なので、クマたちのアパートにいるときは、通りに面したベランダに、ゴザを敷いて衝立を立て、サングラスにビキニで寝転がっていた。いつものクマの場所を譲ったのだが、喜んでもらえた。

ドラは成長するにつれ、オマとの親密な関係を深めて、おばあちゃんっ子となった。日本に帰国してからは頻繁に会えなくなり、長期休暇にはドラは友達よりもオマのお呼び出しを優先した。折に触れオマからクマには、素晴らしいドラを生んでくれて感謝しているというメッセージをもらった。電話の後、遠く離れてドラはオマのオの字も言わないでいる。